
前回はAVの公共文化への道のりについて語り、上流から一般へ翻訳されて降りてくることで文化が形成される理由を解説しました。
そうはいっても「低俗」として性概念を植え付けられている現代の人々が簡単に文化として認めることはLGBTといった問題をいまでも抱える私たちに受け入れる土壌があるとは必ずしもいいにくいものです。
ではなぜ、その低俗が起きているのか…ここを理解することで視野が広がり、日本のAV文化に誇るべきとことがあるという部分が少しでも感じられると幸いです。
AV低俗論:なぜAVは「低俗」と呼ばれるのか
AVについて語ろうとするとき、多くの場合その議論はすでに「AVは低俗なものである」という前提から始まっていることは明白でしょう。
では、この前提は誰が決めたのでしょうか?
もちろん、暴力性や商品化、性的対象化といった問題が指摘されてきた歴史はあるものの、同時に映画や文学、絵画のなかに描かれる性愛については、必ずしも同じ語り方をしていません。
ではなぜ、性を表象しているという理由だけで、AVだけが特別に「低俗」と呼ばれるのだろうかを紐解いていきたいと思います。
「低俗」とはどのように成立する言葉なのか
まずはじめに、AVが本当に低俗かどうかを判断するのではなく、むしろ問うべきなのは、「低俗」とはどのように成立する言葉なのかという点です。
辞書では「下品で俗っぽいこと。程度が低く、趣味の悪いこと。」とされており、一般的にも良いイメージを伴う言葉ではありません。
しかし、AVに対して向けられる「低俗」という評価は、すべての人が個々の作品を実際に観たうえで、その内部に存在する性質を確認して下された判断とは限りません。
むしろそれは、社会のなかで常識的な概念として共有されてきた評価として与えられているものです。
つまり「低俗」とは、作品の内部に存在する性質というよりも、社会のなかで形成される文化的カテゴリーであり、解釈の枠組みとして機能している言葉なのです。
本章ではまず、「AV低俗論」がどのように形成されてきたのかを整理するために、
① なぜAVだけが文化として扱われにくいのか
② 性の表象はどの地点で「芸術」と「低俗」に分岐するのか
③ 視聴者はどのような立場に置かれているのか
といった問題を検討していきたいと思います。
ここから先の議論は、AVを擁護するためのものでも、批判するためのものでもありません。
むしろそれは、AVをめぐる解釈の枠組みそのものを読み解く試みです。
そのためにも、一度既存の固定概念を取り払い、理論を再構築していく必要があります。
本章は、そのための方法としての現象学的還元の試みでもあります。
なぜAVだけが文化として扱われにくいのか
性的な「表象物(心的なものの具現化)」そのものは、決してアダルトAVに限られたものではありません。
例えば、絵画や文学、映画といったさまざまな芸術作品のなかでも、人間の性愛は繰り返し重要な主題として扱われてきました。
それらはときに高い評価を受け、文化として保存され、研究対象として位置づけられてきました。
一方で、時代によっては歴史的価値をもつ作品であっても改変や修正が加えられるなど、性愛の表象が社会的規範の影響を強く受けてきたことも事実です。
それにもかかわらず、同じく性愛を扱う表現であるAVは、決して歴史として浅い存在ではないにもかかわらず、文化として語られる以前に、作品のみならず出演者や制作環境を含めた全体が「低俗なもの」として分類されがちです。
ここでまず、AVの根底にある性行為そのものについて、売春という文化的現象の歴史から考えてみる必要があります。
例えば日本においては江戸時代の吉原をはじめとして、海外においても性的サービスには上位階層と下位階層の区別が存在していました。
すなわち、性的な営みそのものが常に現在のように一様に低俗と見なされていたわけではありません。
また宗教的文脈によっては、性が聖職的役割と結びつき、「聖なる贈与」として位置づけられる場合すら存在していました。
しかし近代へと向かう過程のなかで、市民社会による性規制の概念が徐々に形成されていきます。
そしてその背景には、とりわけキリスト教的倫理観が深く関与していたことは否定できません。
社会不安と売春との結びつきが語られるなかで、近世ヨーロッパにおける魔女狩りの時代には、性的逸脱が社会秩序の脅威として位置づけられるようになりました。
その結果、エロティシズムはしばしば堕落や退廃と結びつけて理解されるようになり、性に対する否定的なイメージが制度的に強化されていくことになります。
ここで重要なのは、「堕落」という概念が単なる道徳判断ではなく、社会的な秩序維持の装置として機能していた点です。
特に貧困層の娼婦の存在が問題化されることで、性の統制と人間観そのものが強く結びつき、性の排除という思想が定着していきました。
このような歴史的背景のなかで、性行為そのものが規制の対象となり、美術作品に描かれた性器が塗りつぶされるといった検閲も広く行われるようになります。
すなわち、性愛の表象は長い時間をかけて社会の表面から排除される方向へと向かっていったのです。
しかし現代においては、美術作品に含まれる性愛的表現は再び文化的価値の一部として再評価されつつあります。
また日本における映像表現の規制も時代的な良し悪しはあれど、かつてに比べれば変化してきているように見えます。
それではなぜ、かつて低俗と見なされていた美術作品などは性愛の表象としての位置を回復してきたにもかかわらず、「AVという形式」だけが現在でも特別視され続けているのでしょうか。
この違いは、単に表現内容の問題ではありません。
むしろ、作品がどのような制度のなかで流通し、誰によって鑑賞され、どのような文脈のなかで語られるのかという、文化的な位置づけの問題として理解する必要があります。
例えば、美術館に展示された裸体画は芸術として扱われますが、同様の身体表象であっても別の流通経路に置かれたとき、それは容易に低俗と呼ばれるようになります。
つまり、「芸術」と「低俗」を分けているのは表現そのものではなく、どこで・誰が・どのように見ることが許されているのかという社会的条件なのです。
AVが文化として扱われにくい理由もまた、この条件のなかにあります。
AVは主として私的な空間において個人的に消費される映像として流通してきました。
そのため公共的な議論の対象になりにくく、教育や研究の対象としても位置づけられにくい構造を持っています。
さらに重要なのは、視聴という行為そのものがしばしば匿名化されているという点です。
誰が見ているのかが語られない表現は、文化として共有されにくい。結果としてそれは社会のなかで語られる対象ではなく、「隠される対象」として扱われやすくなります。
このときAVは、内容によってではなく、語られにくさそのものによって低俗化されていく、と言えるのかもしれません。
したがってAV低俗論とは、単に作品の価値をめぐる議論ではなく、表現の流通構造・鑑賞の制度・視聴者の位置といった文化の成立条件そのものに関わる問題として理解する必要があります。
性の表象はどの地点で「芸術」と「低俗」に分岐するのか
これまで見てきたように、性愛の表象そのものが常に低俗と見なされてきたわけではありません。
むしろ歴史を振り返れば、裸体画や文学作品、演劇や映画など、多くの芸術領域において性愛は繰り返し重要な主題として扱われてきました。
そして、それらは現在では文化として保存され、研究対象としても位置づけられています。
それでは、同じく性愛を扱う表象であるにもかかわらず、なぜあるものは芸術として認められ、あるものは低俗と見なされるのでしょうか。
この違いを理解するためには、作品の内容そのものではなく、作品がどのような場で、どのような方法で、どのような関係のなかで、鑑賞されているのかという点に注目する必要があります。
例えば、美術館に展示された裸体画は芸術として鑑賞され、そこでは観るという行為そのものが公共的な文化活動として制度化されています。
同様に映画館で上映される性愛表現もまた、物語や演出、映像表現の一部として理解されやすくなります。
しかしAVは、多くの場合、個人的な空間のなかで私的に視聴される映像として流通してきました。
つまりここでは、美術館という公共空間、映画館という共有空間、個室という私的空間という鑑賞環境の違いが存在しています。
この違いは単なる場所の問題ではありません。
それは作品と鑑賞者の関係そのものを規定する制度の違いでもあります。
公共空間で鑑賞される表象は文化として語られやすくなりますが、閉鎖的な私的空間で消費される表象は社会のなかで共有されにくくなります。
その結果、同じ性愛の表象であっても、共有される表象は芸術になり、隠される表象は低俗になる、という構造が生まれていきます。
ここで重要なのは、この区別が作品の価値そのものを直接決定しているわけではないという点です。
むしろそれは、作品がどのように語られることを許されているのかという文化的条件の問題です。
AVはしばしば匿名的な視聴環境のなかで消費されます。
そのため鑑賞体験が共有されにくく、公共的な議論の対象として成立しにくい構造を持っています。
そしてこの構造こそが、AVを芸術としてではなく低俗なものとして位置づけやすくしている要因の一つであると考えられます。
つまり「芸術」と「低俗」を分けているのは性愛の強さでも露骨さでもなく、鑑賞の制度・共有の可能性・語りうる環境なのであると言えるでしょう。
視聴者はどのような立場に置かれているのか
これまで見てきたように、AVが文化として扱われにくい理由は、作品の内容そのものではなく、鑑賞の制度や流通構造と深く関係しています。
そしてこの制度のなかで最も重要でありながら、しばしば語られてこなかった存在が視聴者です。
視聴構造が共有されにくいために文化の形成に影響を及ぼす
美術館で絵画を鑑賞する場合、その行為は文化的活動として社会的に認められています。
同様に映画館で映画を観る行為もまた、共有された鑑賞体験として公共性を持っています。
しかしAVの視聴は、多くの場合、個人的で匿名的な行為として位置づけられてきました。
ここで重要なのは、「誰が観ているのか」が語られないという点です。
視聴者が語られない表象は、社会のなかで共有されにくくなり、共有されない体験は文化として成立する条件を持ちにくくなります。
つまりAVは、作品そのものだけではなく視聴という行為そのものが匿名化されているという構造を持っているのです。
この匿名性は単なるプライバシーの問題ではなく、それは自然と視聴者が文化の担い手となりにくい構造を意味しています。
例えば文学や映画について語るとき、私たちは「読者」や「観客」という客観的な存在を前提に議論します。
しかしAVについて語るとき、公共性がないために語りにくさなどから、視聴者はしばしば議論の外側に置かれてしまいます。
その結果としてAVは、作品としても、鑑賞体験としても、共有されにくい文化となっていきます。
しかしここで逆に考えることもできます。
もし視聴者という存在を文化の担い手として位置づけ直すことができるなら、AVの理解の仕方そのものも変化する可能性があります。
つまりAVとは単なる映像作品ではなく、視聴者と作品の関係のなかで成立する「出来事」として捉えることができるのではないでしょうか。
この視点に立つとき、AV低俗論とは単なる価値判断の問題ではなく、
誰が観ているのか・どのように観ているのか・その体験がどのように意味づけられているのか
という問いとして再構成されていきます。
そしてここから初めて、AVをめぐる解釈のモデルそのものを考えることが可能になるのです。
AVは単なる映像作品ではなく「出来事」として捉える
これまで見てきたように、AVが文化として受け入れられにくい理由は、表現内容そのものではなく、鑑賞の制度や視聴者の位置づけと深く関係していました。
もちろん歴史のなかで形成されてきた性に関する概念は長い影響力を持っています。
しかし現在では、多くの宗教的価値観を含め、人間の生のあり方そのものに関わる諸概念が大きく変化しつつあります。
その意味において、従来の性概念のみで現在の状況を理解し続けることは次第に難しくなりつつあると言えるでしょう。
ここで改めて問うべきなのは、アダルトAVとはそもそも何なのかという点です。
一般にアダルトAVは、「性の解消を目的とした映像作品」として理解されており、撮影され、編集され、流通する一つの完成されたコンテンツとして扱われています。
しかし、実際の視聴体験に注目すると、AVは単なる鑑賞作品としてだけでは説明できません。
むしろそれは、自らの知覚(五感)に働きかける強い嗜好性を伴った体験として現れます。
例えば同じAV作品であっても、映画の感想とは異なり、嗜好の差によって、ある人には特定のモデルが強く印象に残り、別の人には作品全体としてほとんど何も残らないということが起こりえます。
また同じ視聴者であっても、ある時代には意味を持っていた表象が、別の時期には同じようには意味を持たなくなるという変化も生じます。
例えば感染症予防の観点から見ても、かつてはコンドームの装着が重要な意味を持っていた場面が、現在では予防内服薬の普及によって異なる意味を持つようになっています。
このような変化は、作品による知覚への刺激が単なる内容の過激さだけでは説明できないことを示しています。
むしろここで起きているのは、視聴者と表象のあいだで意味が生成され、更新され続けているという出来事です。
さらにそこには、映像のなかに存在するモデル自身の時間の経過や、視聴者の生活経験の変化といった現実の時間も関わっています。
つまりAVとは、固定された意味を持つ作品というよりも、
過去として撮影された表象が、現在の知覚によって経験され、未来へと意味を開いていく
そのような時間の流れのなかで成立する体験として理解することができます。
このときAVの中心にあるのは映像そのものではありません。
重要なのは、どのように観たのか・どのように感じたのか・どのような意味が生まれたのかという関係の生成です。
ここで初めて、AVは単なる消費対象として存在するだけではなく、知覚している現在(いま)において意味が生成される文化的な出来事として捉え直すことが可能になります。
そしてもしAVが出来事として理解されるならば、その価値は作品の形式や露骨さによって決まるものではなく、視聴者との関係のなかで生成される意味として考える必要があります。
この視点に立つとき、「低俗」という評価もまた作品の内部に存在する性質としてではなく、出来事としての視聴体験がどのように語られてきたのかという文化的な問題として理解することができるでしょう。
つまりAV低俗論とは、作品の評価ではなく、出来事としての視聴体験がどのように社会のなかで位置づけられてきたのかという問題として読み直すことができるのです。
そしてこの視点は、これまで流通構造の問題として語られてきた議論を越えて、現代という時代においてAVをどのように理解するのかという問いそのものを考えるための出発点になります。
AVを取り巻く環境と映像の読み方としての提案(解釈モデル型)
ここまで見てきたように、AVを単なる性的消費のための映像作品として理解するだけでは、その文化的な意味や視聴体験の構造を十分に説明することはできません。
もしAVが、制作者と視聴者の関係のなかで成立する「出来事」であるならば、私たちはそれをどのように理解すればよいのでしょうか。
本章ではそのための一つの試みとして、AVを「映画評論のように読む」という視点を提案したいと思います。
とはいえ、このように提示されても、多くの場合、視聴者の立場から読み取られるのは「モデルが好き」「体位がエロい」「フェチをくすぐる」といった嗜好に関わる評価にとどまりがちです。
しかし、ここで言う「映画評論のように」とは、作品の善し悪しを評価することではありません。
むしろ制作者側の意図を手がかりとして提示することで、視聴者自身の嗜好をより具体的に解釈していくための読み方を意味しています。
一般に映画では、未視聴の作品の結末を事前に知ってしまうと楽しみが減ってしまうと考えられがちです。
しかし心理学の研究では、ある程度の過程や結末を予習してから鑑賞しても、作品の楽しさは大きく損なわれないことが示されています。
これは、最初に表象されたものを単純に受け取る「消費モデル」から、結末を含めて過程そのものを理解しようとする余裕が生まれる「解釈モデル型」へと、視聴の姿勢が移行するためだと考えられます。
人間は対象を評価し意味づけようとするとき、そこに一定の認知的な関与を行います。
その関与は単なる快・不快の判断を超えて、「何が起きているのか」を理解しようとする読みへと変化していきます。
例えば映画を観るとき、私たちは次のような点に注目します。
登場人物の関係 / 身体の動き / 視線の方向 / 空間の構成 / 時間の流れ / 編集の意図
これらは単なる情報ではなく、作品の意味を形づくる要素として理解されます。
しかし同じ映像作品であるアダルトAVは、これまでそのような読み方の対象として扱われる機会がほとんどありませんでした。
多くの場合AVは、個人の性的嗜好を満たすための評価を軸として語られるか、あるいは性を低俗なものとする社会的概念の影響のなかで、主として否定的な論評の対象として扱われてきました。
その結果、視聴体験はしばしば表面的な感情の処理として消費され、制作者の意図や背後にある構造について語られることはほとんどありませんでした。
しかし、AVを「読む」という立場に立つならば、そこには次のような問いが生まれます。
①この身体はどのように現れているのか
②この関係はどのように構成されているのか
③この視線は誰のものなのか
④この時間はどのように経験されているのか
こうした問いは作品の評価とは異なる次元で、映像体験そのものを理解する手がかりになります。
そしてこの読み方は視聴者だけのものではありません。
出演者にとっても、制作者にとっても、研究者にとっても、共通の理解の枠組みとして機能する可能性があります。
つまりこれは、AVをめぐる議論を「評価の言葉」から「理解の言葉」へ移動させる試みでもあるのです。
もしAVが出来事として成立する文化であるならば、その意味は作品の内部だけではなく、 身体・関係・時間・視線 といった複数の要素の重なりのなかで生成されているはずです。
本章で提案する解釈モデル型とは、その重なりを読み解くための一つの視点です。
本稿でいう「解釈モデル」とは、作品を評価するための理論ではなく、映像体験のなかで何が起きているのかを理解するための読み方の枠組みを指しています。
それは完成された理論ではなく、むしろ、AVをどのように読むことができるのかという問いを共有するための出発点として提示されるものです。
この出発点は、制作者側にとっては低俗概念の転換を促す契機となり、視聴者にとっては性の理解を実践する契機となる可能性を持っています。
そして同時に、それは時代背景や文化的な時差を伴う、困難ではあるものの重要な試みでもあります。
現在、日本の性教育はしばしば遅れていると評されますが、しかし私自身は、必ずしも世界的に見て単純に遅れているとは考えていません。
なぜなら西洋における性教育の多くもまた、自然主義的な科学的アプローチを中心として構成されており、そこでは主として性の「機能」が扱われるからです。
これに対して性交学が目指すのは、機能としての性ではなく、性の根源や存在の意味を問い直すことであり、人間らしさや性交における美の可能性を探究する営みでもあります。
その意味で、哲学的考察とアダルトAVの評論を結びつける実践は、学術と文化実践を接続する一つの理想的な試みになりうるのではないでしょうか。

さて、論文っぽく書いてきましたが、次回はゆるめにゲイビデオの見方のポイント(ゲイビデオ論)だったり、自分がこんなAV評論イベントがあったら面白いな~なんて記事を書いてみようと思います!
が、マジメすぎて読者も自分も甘い記事がほしいところだと思います。(笑)
というわけで、いったん小休止としてとある潜入レポートを書いておりますのでお楽しみに♪
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