
このブログのメインでもある性交学として日々研究を重ねていますが、もうひとつのブログではAVレビューを書いています。
AVについてレビューをしているとき、モデルの社会的存在について考えることがありますが、皆さんも気になったことはあるのではないでしょうか。
性についてあまり表立って活躍することができにくい、そんな性社会についての考察をこのページではまとめてみました。
次回はなぜ低俗として扱われるのか、消費モデルから解釈モデルへAV文化の向上に向けた転換などについて考察してみたいと思っています。
上流文化はどのように大衆文化へ降りてきたのか
今日私たちが日常的に接している映画、音楽、ファッション、マンガ、インターネット文化などは、多くの場合「大衆文化」と呼ばれており、私たち消費者が生きる上での糧となっています。
しかし、これらは突然生まれたものではありません。むしろその多くは、かつて限られた階層に属していた「上流文化」あるいは「教養文化」から形を変えながら、私たち一般の生活の中へと広がってきたものです。
つまり文化とは、ある日突然民主化されるものではなく、上流から発生し、それが一般へと翻訳されながら降下し、やがて社会に根付いていく現象だといえるでしょう。
そもそも上流文化とはどのようなものか
歴史的に「文化」と呼ばれてきたものの多くは、もともと誰にでも開かれていたわけではありませんでした。
古典文学や哲学、美術や音楽(とりわけクラシック音楽)、さらには礼儀作法や修辞学といったものは、教育制度と強く結びつきながら、主として支配階級や知識階級の内部で継承されてきたものだったのです。
たとえば芸術について考えてみましょう。
現代では彫刻作品は制作者の独創性によって評価されるものですが、貴族が社会の中心にいた時代には、芸術作品は宗教的意味や社会的機能を持っていなければ価値を認められにくい側面がありました。
個人の自由な創作というよりも、社会秩序や信仰体系の中に位置づけられるものだったのです。
音楽についても同様のことが言え、かつて音楽は貴族の屋敷に招かれて演奏される、いわば空間を整えるための背景的な役割を担うことが多くありました。
しかし、社会構造や経済の変化とともに、そのあり方は少しずつ変化していきます。
たとえば公開演奏会の形式が広まり、音楽がより広い層に向けて提示されるようになったことで、音楽は次第に公共的な文化として根付いていくことになりました。
さらに現代のインターネットについても興味深い例があります。
本来インターネットは軍事研究の延長として発展した技術でしたが、その後、思いがけない用途──とりわけ個人的欲望(エロ)の共有のような領域──によって急速に普及し、結果として世界中を結びつける基盤となりました。
ここでもまた、限定された目的から出発した技術が社会全体へと開かれていく過程を見ることができます。
このように考えると、文化とはもともと社会全体に共有されるものというよりも、むしろ区別を生み出す装置として機能していた側面を持っています。
文化を持つ者と持たない者、理解できる者と理解できない者が分かれることによって、文化は社会の内部に境界線を引いてきたのです。
つまり文化とは単なる娯楽や教養ではなく、常に政治性を帯びた営みでもあったといえるでしょう。
では、大衆文化とは上流文化の単なる簡略版なのでしょうか?それともまったく別の文化なのでしょうか?
なぜ上流文化は大衆へ降りてきたのだろう
そもそも、なぜ上流文化は大衆へと広がっていったのでしょうか?
大きく言えば、その理由として三つの要因が考えられます。
教育の普及、印刷・映像・通信技術といったメディアの発達、そして消費社会の成立です。
まず教育の普及について見てみましょう!
近代国家は国民に読み書きの能力を与えることで、文化を共有するための条件を大きく変化させました。
それまで限られた階層の内部にとどまっていた文学は「読めるもの」となり、哲学は翻訳され、芸術は解説され、歴史は社会全体で共有される対象となっていきます。
つまり文化は、もはや貴族や知識階級といった「訓練された者だけのもの」ではなくなったのです。
次に重要なのがメディアの発達です。
印刷、写真、映画、テレビ、そしてインターネットといった媒体の発展は、文化の複製を可能にし、それまで限定された場所でしか触れることのできなかった文化を社会全体へと広げていきました。
かつて原画を見るためには美術館へ足を運ばなければなりませんでしたが、現在では画像検索によって誰もがアクセスすることができます。
また、かつて劇場でしか観ることのできなかった演劇も、映像化によって家庭の中に入り込んできました。
もちろん実物の迫力や空間性は弱まるかもしれませんが、それでも文化が広く共有される契機となったことは確かです。
こうして文化は「体験されるもの」から「アクセス可能な情報」へと変化しました。
そして現代では、自ら探さなくても媒体を通して自然と文化が流れ込んでくるようになり、私たちは情報過多とも言える時代の中に生きることになっています。
三つ目の要因として見逃せないのが消費社会の成立です。
文化は教育によって普及しただけではなく、市場の中で商品として流通するようになりました。
クラシック音楽はレコードとなり、絵画はポスターとなり、文学は文庫となり、哲学は新書として出版されるようになりました。
文化は個人によって所有される対象となり、階級の象徴としての意味を持っていた文化は、次第にライフスタイルの選択肢として位置づけられるようになっていったのです。
文化はそのまま「下に降りた」のではない
しかしここで注意しなければならないのは、文化が単純に上流からそのまま一般社会へ降りてきたわけではないという点です。
上流文化は、そのままの形では大衆文化にはなりません。
社会的条件、経済的条件、場所の制約、身体感覚の違いなど、さまざまな要素を通して一般の人々が受け入れやすい形へと変形される必要があります。
そもそも上流文化の多くは、その階層に属する人々が長い教育や環境の中で身につけてきた前提を共有しています。
その前提を持たない人々が突然同じ理解に到達することはありません。
文化は理解されるために変形されなければならないのです。
必ずそこには翻訳があり、簡略化があり、そして身体化の過程があります。
たとえば神話はマンガへと変換され、古典文学は映画へと変換され、哲学は自己啓発として語り直され、宗教儀礼はサブカルチャーとして再配置されます。
この変換過程そのものが文化の生成過程なのです。
大衆文化とは劣化ではなく再編集である
しばしば大衆文化は「低俗化」として語られることがあります。しかし、そもそも何を基準として低俗と呼ぶのでしょうか。
たとえば神話がマンガとして語り直されるとき、それは単なる劣化ではありません。
人々が「神」という概念に惹きつけられているという点において、その根本的な欲望や関心は連続しています。
形が変わっただけで、本質的な問いそのものが失われたわけではなく、文化とは再配置されながら広がっていくものです。
階層構造の中を移動しながら新しい意味を獲得し、そのたびに社会のさまざまな領域へ影響を与えていきます。
現代の豊かな文化は、この再配置の積み重ねによって育まれてきたものだといえるでしょう。
映画は文学を引用し、マンガは神話を引用し、ポップ音楽は宗教音楽を引用します。文化は常に過去を素材にしながら更新され続けているのです。
そして、現代では文化の流れは逆転しはじめており、現代社会では興味深い変化も起きています。
かつては「上流文化 → 大衆文化」という流れが中心でした。
しかし、現在では「大衆文化 → 学問・芸術(上流文化だった)」という逆方向の流れも生まれています。
映画研究、マンガ研究、ゲーム研究、そして私自身が試みている性交学としてのAV研究なども、その具体例のひとつでしょう。
文化の価値は固定されたものではありません。文化とは常に移動しながら広がっていくものであり、その本質を保ちながら別の領域へと接続され続けているのです。
身体の文化はどのように上流から大衆へ降りてきたのか
ここまで見てきたように、文化とは上流から大衆へと翻訳されながら降りてくるものでした。
ではこの流れは、身体に関わる文化──とりわけ性や感覚、親密さといった領域においても同じように起きているのでしょうか。
結論から言えば、身体の文化もまた同様に上流文化として成立し、それが変形されながら社会へと広がってきました。
むしろ身体の文化こそ、その変化がもっとも劇的に現れている領域だと言えるかもしれません。
古代や中世において身体は、個人の所有物というよりも宗教や共同体の秩序の中に位置づけられていました。
身体は神の創造物として理解されながらも、同時に死という不連続性を与えられることで〈聖〉という概念を身にまとってきました。
さらに身体は社会的役割を担う器であると同時に、労働という共生活動の中では生殖行為を抑制される対象でもありました。
そしてまた規律の対象でありながら、その禁止を侵犯することによってこそ、生の意味が強く立ち上がる存在でもあったのです。
つまり身体とは自由に扱われるものではなく、さまざまな意味を与えられた存在でした。
それは身体とは自然物ではなく、常に意味づけられてきた文化的存在だったともいえるでしょう。
たとえば宗教儀礼の中では身体の動きそのものが象徴的な意味を持ち、礼拝や祈り、巡礼といった行為は単なる動作ではなく文化的実践として理解されていました。
ここでは身体は信仰の媒体であり、共同体の秩序を維持する装置でもあったのです。
しかし近代に入ると、この身体の位置づけは大きく変化していきます。
教育制度や医学の発展によって身体は「理解される対象(科学的)」となり、さらに都市化や市場の拡大によって身体は「管理される対象(人口)」へと変わっていきました。
そしてやがて身体は「表現される対象」として社会の前面に現れるようになります。
ここで重要なのは、身体が文化の中心へと移動してきたという点です。
かつて身体の表現は宗教や儀礼の内部に限定されていましたが、近代以降は演劇や舞踏、写真、映画といったメディアの中で新しい意味を持ちはじめます。
身体は隠されるものから見られるものへと変化していき、さらに現代においては、この変化はもう一段階進みます。
身体は単に見られる対象であるだけでなく、記録され、複製され、共有される対象になりました。
写真や映像は身体の一瞬を保存し、それを他者と共有することを可能にしました。
ここでは身体は出来事として経験されるだけでなく、文化として流通する存在になります。
つまり身体そのものが文化になったのです!
この変化はとりわけ性の領域において顕著に現れています。
かつて性は宗教や道徳の内部で管理される対象でした。
しかし近代以降、医学や心理学、さらには出版や映像文化の発展によって、性は語られる対象となり、やがて表現される対象へと変化していきます。
ここでもまた、上流文化から大衆文化への翻訳が起きているのです。
性についての知識は専門家の内部に閉じられていたものから一般へと広がり、身体についての理解は個人の経験として共有されるようになりました。
そして、現代では映像文化の発展によって、身体はさらに新しい形で再配置されています。
ここで重要なのは、この変化を単なる露出の拡大として理解するのではなく、むしろこれは身体が文化として成立する過程そのものだと言えるでしょう。
身体は宗教の中にあり、医学の中にあり、芸術の中にあり、そして現在では映像文化の中にも存在しています。
身体は常に文化の内部で意味づけられながら移動してきたのです。
そしてその延長線上に、現代の映像文化、とりわけ性的身体の表現としての映像も位置づけることができます。
ここで初めて私たちは次の問いに進むことができます。
性的身体の映像とは単なる娯楽なのか?それとも文化の系譜の中に位置づけられる表現なのか?
この問いに答えることが、現代における身体文化を理解するための重要な手がかりになるでしょう。
性の表象はどのように文化になったのか
ここまで見てきたように、文化とは上流から大衆へと翻訳されながら降りてくるものであり、身体もまた宗教や労働、規律といった社会的意味の中で位置づけられてきた存在でした。
では、その身体の中でもとりわけ強く管理されてきた「性」は、どのようにして文化として語られるようになったのでしょうか。
歴史的に見れば、性は長いあいだ文化の外部に置かれてきたわけではありません。
むしろ逆に、性は常に文化の内部にありながら、宗教や道徳、制度によって慎重に意味づけられてきた領域でした。
性は語られないものではなく、「語られ方が制御されていた」ものだったのです。
たとえば宗教の中では、性は単なる快楽ではなく、生殖や秩序と結びついた神聖な営みとして理解されていました。
また社会制度の中では、家族や婚姻といった形を通して、性は共同体を維持するための重要な機能として位置づけられていました。
つまり性とは、もともと個人の自由な領域というよりも、社会の構造の内部に組み込まれていた文化的実践だったのです。
しかし近代に入ると、この状況は大きく変化します。
医学や心理学の発展によって性は「理解される対象」となり、教育や出版によって性は「説明される対象」となり、さらに写真や映像といった技術の登場によって性は「見られる対象」となっていきました。
ここで重要なのは、性そのものが変化したというよりも、性の表象のあり方が変化したという点です。
人間は単に身体を経験しているだけではありません。
身体の語られ方や見られ方を通して、身体そのものを理解しています。
つまり私たちは性を直接知っているのではなく、性の表象を通して性を理解しているのです。
このとき、性は個人的な経験であると同時に、社会的に共有される文化となります。
写真は身体の一瞬を記録し、映画は身体の運動を保存し、映像は身体の関係そのものを再現可能なものとして提示しました。
ここで初めて性は出来事としてだけではなく、表象として流通する文化へと変化していきます。
つまり性は隠される対象から、読まれる対象へと移動したのです。
そしてこの変化は、単なる露出の拡大として理解されるべきではありません。むしろそれは、人間が身体をどのように理解するかという文化そのものの変化として捉える必要があります。
身体が宗教の中にあり、制度の中にあり、労働の中にあり、芸術の中にあったように、性もまた表象の中に位置づけられることで文化として成立してきました。
重要なのは、性が文化になったというよりも、性の表象が文化を形成してきたという点にあります。
私たちは身体そのものを経験しているだけでなく、身体の語られ方や見られ方を通して身体を理解しています。
そして、その理解の仕方そのものが文化を作っているのです。
では、性的身体の映像とは単なる娯楽なのでしょうか。それとも文化の系譜の中に位置づけられる表現なのでしょうか。
本稿の後半では、この問いを現代の映像文化、とりわけAVという表現形式を手がかりに考えてみたいと思います。
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